LOGIN午前一時五十二分。
蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。
通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。
それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。
美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。
奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。
朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。
三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。
『早乙女美月』
スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。
救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。
それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。
『死亡予定時刻、午前二時二十七分』
車内の時計は一時五十二分を示していた。
残り三十五分。
奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。
美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。
「美月……」
「大丈夫」
奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。
それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。
奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。
「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」
奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。
美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。
犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。
ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。
美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。
七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。
止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。
美月自身が補充しているため、本来なら一本増えただけでも気づくはずだった。
「全部、私が出す。誰も素手で触らないで」
美月は手袋を交換し、中身を一つずつ白いシートへ並べた。
澪は品名と数を読み上げ、蓮司が記録する。
ガーゼ、包帯、固定用テープ、消毒綿、使い捨て手袋までは美月の記憶と一致したが、薬剤を収めた小型ケースへ手が移ったところで、彼女の指が止まった。
「これ、私のじゃない」
透明なアンプルが一本、同じ大きさの薬剤の間へ紛れ込んでいた。
ラベルには、美月が緊急時の鎮静目的で使うことがある一般的な薬剤名と濃度が印刷されている。
外見だけなら正規品と区別しにくく、蓋の色も同じだったが、美月は製造番号を見た瞬間に違和感を口にした。
「自分が持ってるものは同じ時期に補充したから、番号が連続してる。これだけ形式が違う」
美月はラベルを拡大した。
印字の位置も半ミリほどずれ、端には家庭用印刷機で再貼付したような薄い段差がある。
朔が「開けない方がいい」と止めると、美月も頷き、外側から確認できる範囲だけを見ることにした。
光へ透かすと、正規の薬剤は無色透明なのに、問題のアンプルだけほんの僅かに黄みがある。
携帯している簡易試験紙で外側に付着した微量成分を調べると、ラベルの名称とは異なる薬剤群を示す反応が出た。
美月は結果を二度確認し、アンプルを他の薬剤から完全に分離した。
「注射したら、どうなるの?」
澪の問いに、美月は量によると前置きした。
呼吸や循環に重い影響が出る可能性があり、少なくとも鎮静薬として使ってよい中身ではない。
奈々香の顔色が変わるのを見て、美月はアンプルから距離を取らせた。
死亡予告を受けた奈々香が再び強いパニックを起こし、過呼吸や暴れるほどの混乱へ陥れば、美月は安全確保のため薬剤投与を検討する可能性がある。
そのとき、見慣れたラベルを信じて偽物のアンプルを使えば、救おうとした行為そのものが致命的な結果へつながりかねない。
美月はそこまで考えたところで表情を硬くし、これは自分を殺す罠ではなく、奈々香を殺す罠にもなり得ると告げた。
「あるいは、これを使った美月に責任を負わせる」
蓮司の言葉に車内が静まった。
犯人が狙っているのは単純な死亡だけではない。
誰が誰を救おうとし、失敗すれば誰を責めるのかまで計算されている。
七刻女学校でも、仕掛けそのものより、仕掛けを見つけた後に互いを疑わせる構造の方が執拗だった。
美月は薬剤ケースをすべて封じ、今夜は中の薬を一切使用しないと決めた。
次に飲食物を確認すると、水筒の蓋を開ける前から、わずかに甘く薬品めいた臭いがした。
水筒は夕方、美月自身が自宅で洗って水だけを入れたもので、常世荘から戻り橋へ向かう間には何度か口をつけているが、橋へ到着してからは飲んでいない。
「これも変」
朔が蓋の内側を照らすと、パッキン部分に針を刺したような細い穴が残っていた。
蓋を開けなくても、細い針を使えば内部へ液体を入れることはできる。
悠斗がいつバッグから目を離したか尋ねると、美月は七刻女学校でも常世荘でも機会はいくらでもあったと答えた。
透のところへ走ったとき、奈々香を助けたとき、壁の中へ入ったとき。
誰かが医療バッグや水筒へ数十秒触れられる場面は何度もあった。
犯人が今夜だけ狙ったのではなく、もっと前から複数の罠を仕込み、必要になったものだけ使っている可能性もある。
簡易検査では水から明確な物質までは特定できなかったが、ただの水ではないことは臭いだけでも分かる。
美月は一滴も口にせず、密封袋へ入れた。
奈々香は自分の飲み物も疑い始めたため、澪が未開封のペットボトルまで含めて一度全部避けようと提案し、六人の飲食物をまとめて分離した。
澪は並べられた薬剤と水筒を見ながら、犯人が「本人が自然にやること」の先へ罠を置いているのだと口にした。
奈々香なら、怖くなれば車で逃げようとする。
意味のある時刻が書かれた鍵を見つければ、答えを探すため倉庫へ入るかもしれず、美月なら誰かが体調を崩せば医療バッグを開き、自分が冷静でいるためにも水を飲む。
「監視してた程度じゃない」
澪はそう言ったあと、自分の声にぞっとした。
公開された動画や仕事の経歴を調べるだけで、美月が医療従事者であることは分かる。
しかし誰かが恐慌状態になったとき、美月がまず自分で鎮静させようとするのか、救急要請を優先するのか、どの薬を持ち歩いているのかまで読むには、より深い観察が必要だった。
「何年も知ってる人みたい」
悠斗が何も言わず朔を見た。
朔はその視線に気づいても反応せず、アンプルと水筒の写真を撮り続けている。
だが澪にも、犯人が七人の性格を異様なほど正確に理解していることは否定できなかった。
死亡予告の音声ファイルが作られ始めたのは数か月前でも、材料自体は八年前から存在する。
七刻女学校で七人が作った映像、常世荘へ貼られた写真、澄花の記録、現在の仕事や生活を追う監視。
蓮司はそれらを挙げ、誰かが八年間の変化まで見続けていた可能性を考えるべきだと言った。
美月はその話を聞きながらも、自分の衣服、靴、車の座席、救急鞄の肩紐を確認した。
服に薬品を染み込ませた跡はなく、靴底にも切れ目はない。
腕時計やスマートフォンも朔が外部信号を確認したが、死亡予告を流す不正な動作以外に危険を生じさせる機能は見つからなかった。
午前二時七分。
残り二十分になると、六人は奈々香と美月を車内に残したまま、車体そのものを再確認した。
奈々香のときに発見した遠隔遮断器はすでに外され、蓮司の車のブレーキ系統には細工がなく、排気口、シート下、エアコンの吸入口にも新しい装置は見つからなかった。
美月は時間が減っても態度を変えなかった。
むしろ残り十分を切ったところで、自分が今まで取った行動を一つずつ口に出し、その中に犯人が期待していたものがないか確認した。
奈々香の診察、薬の確認、水分補給、外傷の処置はどれも医療従事者として自然な行動だった。
「相手は、私が正しいことをする前提で罠を置いてる。なら今は、何もしないのが一番安全」
午前二時二十分。
残り七分。
六人は車から少し離れた開けた場所へ移動し、美月を中央へ置いた。
彼女は食べず、飲まず、医療バッグにも触れず、自分の身体へ何も投与せず、心拍数はやや高いものの意識も呼吸も安定していた。
澪は隣で時刻を見ないようにしていたが、美月本人は時計から目を逸らさなかった。
死ぬと告げられた数字を避けるのではなく、そこへ何が仕込まれているのか観察するように秒を追っている。
その姿は高校時代と変わらないと澪は思った。
怖がっていないのではなく、怖さを理由に判断を雑にすることを、誰より嫌う人だった。
午前二時二十六分五十秒。
朔が周囲へライトを向け、蓮司と悠斗が橋側と山道側を見張る。
奈々香は澪の袖を掴みながら、美月の顔だけを見ていた。
秒表示が二十七分へ切り替わっても、風と川音以外には何も変化がなかった。
十秒、二十秒と過ぎても美月は立っており、呼吸も脈も正常だった。
朔が時計と美月を同じ画面へ収め、蓮司が時刻を記録する。
奈々香が「生きてる」と声を漏らすと、美月は自分の頸動脈へ指を当て、ほんの少しだけ息を吐いた。
「二回目も外した」
死亡時刻そのものに力があるわけではない。
その時刻へ向かわせる罠を避ければ、人間の作った予告は成立しない。
奈々香に続き、美月も生き残ったことで、その考えはさらに強くなった。
その直後、美月のスマートフォンが鳴った。
誰も触れていない端末が勝手に明るくなり、今度は発信者名さえ表示されないままスピーカーが起動する。
流れたのは美月自身の声ではなく、澪たちが八年間探し続けてきた少女を思わせる声だった。
『美月は、昔から正しいものしか選ばないね』
美月の顔から血の気が引いた。
澪は声そのものより、その言葉に覚えがあった。
高校時代、澄花が美月へ半分呆れ、半分からかうように何度も使っていた言い回しで、部室で皆が期限ぎりぎりまで課題を放置したときも、夜中に廃墟へ入る前に救急用品を確認する美月を見たときも、澄花は同じ言葉を笑いながら口にしていた。
七刻女学校に残された映像へ入っていた記憶はない。
公開された動画にも、警察へ提出した音声にも残っていないはずだった。
少なくとも美月の知る限り、その言葉はカメラを回していない日常の中で交わされたものだった。
「誰が知ってるの?」
美月は端末へ一歩近づいた。
死亡予定時刻を告げられたときにも崩れなかった声が、今は僅かに震えている。
誰からその言葉を聞いたのか、澄花本人なのかと続けて問いかけた。
数秒の雑音が続き、その間も山の風が端末のマイクへ入り込んだような低い音が流れていた。
澪は美月の横で息を殺し、奈々香も自分の手を胸元へ寄せたまま動かなかった。
やがて少女が小さく笑った。
『七人とも知ってるよ』
「どういう意味?」
『知ってるでしょ』
「あなたは澄花なの?」
返事の代わりに、風のようなノイズが続いた。
美月はさらに、澄花なら自分がその言葉を嫌っていた理由を知っているはずだと問いかけた。
澪自身、その理由があったことすら知らなかったため、電話の向こうが本当に答えられるのか息を止めて待った。
少女はすぐには答えず、受話口の向こうで一度だけ息を吸う音を立てた。
その沈黙は質問を聞き取れなかったものではなく、意図的に答えを避けているように長かった。
やがて短く息を吐き、少女はそれまでより低い声で告げた。
『次の電話まで、あと少し』
そこで通話は切れた。
美月は暗くなった画面を見つめたまま動かず、蓮司は〈七人とも知っている〉という言葉を記録した。
奈々香も、死亡時刻を告げられたときより美月の顔色が悪いことに気づき、声を掛けられないまま横顔を見ていた。
朔はすぐ無線設備の音声ファイルへ同じ文言が存在するか確認したが、該当する素材は見つからなかった。
用意されていた死亡予告のファイルにも、澄花の既知の音声にも、今の一文は保存されていない。
誰かが別の場所からリアルタイムで喋ったか、まだ見つけていない私的な記録を持っていると考えるしかなかった。
澪は八年前の七人を一人ずつ思い浮かべた。
澄花、透、美月、悠斗、奈々香、朔、そして自分。
あの言葉を知っていたのが本当に七人全員なのだとすれば、電話の向こうにいる者は外から七人を調べた人物ではなく、あの輪の中で交わされた時間そのものを知っていることになる。
美月がようやく顔を上げた。
死亡予定時刻を告げられたときよりも青ざめた表情で、七人とも知っていると言った、と繰り返す。
その声は冷え切っていたが、今度は誰も「録音だ」と簡単には言えなかった。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の